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ポテチの好きな映画についてと感想

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Shortbus 2006

http://blog.cnobi.jp/v1/blog/user/e5b21aa450b596bc2d2c1b78a13c4a4f/1280808202

ジョン・キャメロン・ミッチェル監督作品「ショートバス」について

主人公はソフィアという中国系アメリカ人のカップル・カウンセラー。
人々のセックスの悩みを解決するのが仕事。
夫を愛しているけど、実はオーガズムに達したことが無い。
ジェイムズとジェイミーはゲイのカップル。
愛の強さに防波線を引き、一定線からは相手を受け入れない。
自殺未遂まで発展するくらい、
他のパートナーを入れた方が良いのかと悩んでいる。
SM女王のセヴェリンはグラウンド・ゼロを見下ろす部屋が仕事部屋。
そこでお客に相手をしつつ、
「こんなはずじゃなかったのに」とため息をもらす日常。
そんな彼らがアンダーグラウンドのセックスサロン
「ショートバス」に集まる物語。

http://blog.cnobi.jp/v1/blog/user/e5b21aa450b596bc2d2c1b78a13c4a4f/1280808126

そんなことでちょっと過剰に考えすぎてない?と思ったりするのだが、
確かに今この世の中、
複雑に囚われやすいしなぁと人事では済まされない気がして
本人たちの真剣に悩む姿に対して、
自分に映してしまったりして、はっとしたり。

人間関係は様々で過激だったりするものの、結局行き着くところが、
孤独にはなりたくないということ。....言葉では簡単なんだけどね。

http://blog.cnobi.jp/v1/blog/user/e5b21aa450b596bc2d2c1b78a13c4a4f/1280808176

ファナーレでサロンのオーナーの歌う場面と歌詞の内容。
(これには個人的に参りました)。

誰もが傷の痛みに耐えている。そう、笑顔を作ってる。
暗闇でため息ついて、独りになってから舞台へ
第一幕が始まる頃、もう観客が待っている。
あなたの失敗やトチリを、そしてラストを
涙の染み付いた道で、私の恐れを鎮めてほしい。
ちょっと私を脇に呼んで、よく頑張ったとほめてほしい。
命が終わる時、満足して、息が引き取れるように。
人は皆いつか、死ぬんだから。

人は臨終の床で気づく。
心の悪魔こそ、最良の友と。
誰もが最後には、そうと知る。....いつか

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Priest 1994

http://blog.cnobi.jp/v1/blog/user/e5b21aa450b596bc2d2c1b78a13c4a4f/1280680145

アントニア・バード監督作品「司祭」について

英国リヴァプールの教区に勤める新米神父グレッグさん、実はゲイ。
そんな彼がジューリーという少女から
父親に性的虐待をされていることを告白される。
グレッグは、教会のルールに従い、母親に事実を伝えるために
ジューリーの許可を得ようとするが、得ることは出来なかった。
自分の無力さに苛立っているグレッグは、
発展場で出会ったグラハムという男性との関係と
神への忠誠の間でも心が揺らいでいた。

グラハムに徐々に心を許し始めた矢先、
2人が車の中でキスをしているところを警察に見つかり、
グレッグがゲイであることが公になってしまう。
その結果、田舎の厳しい教区に左遷。
一方、ジューリーの母親に、父親が娘をレイプする現場を目撃してしまって、
「守秘義務」を守ったグレッグを侮蔑する事になり、
二重の非難を浴びることに。

それでも勇気を出して、主任司祭(リベラル派)マシューの説得により、
リヴァプールに戻る。
聖体拝領のミサで彼は女子高生に「許してくれ」と詫び、
女子高生はそっと、彼を抱きしめる。


「保守的なカトリックの神父として生きるということはどういうことなのか」
信仰とは何か?と、いうものをひしひしと伝える物語です。
虐待の事実を知りながらも、何も出来ない無力感を神に訴えたり、
グラハムを愛しているのに、
この職を辞めてまで彼と一緒になることを選ぶことはないグレッグ。
神父として生きていくには、多くの困難があり、
それらに対して明確な答えを見出すことが出来るわけではない。
それでも、そう生きたいグレッグは、
それだけ神への忠誠を誓っているのでしょう。

http://blog.cnobi.jp/v1/blog/user/e5b21aa450b596bc2d2c1b78a13c4a4f/1280680206

私はあまり信仰に関してはほど遠いところに居るので、
把握がいまいちなところはあります。
でもこれって、時々、迷ったりした時に手出してくれるとか、
人とコミュニケーションするための場を提供してくれるとか
対象となるそれぞれの神の教えはあるものの、強制はなく、
人のより良く生きて行くことへのサポートみたいな役割なのではと思うのですが、
それらはあくまで、二の次ということでしょうか?
それにしても彼の「司祭として」と「人間として」とのジレンマ。
苦しい現実だな〜

Smoke 1995

http://blog.cnobi.jp/v1/blog/user/e5b21aa450b596bc2d2c1b78a13c4a4f/1280204176

ウェイン・ワン監督作品「スモーク」について

オーギー・レンは、ブルックリンの街角で煙草屋を営み、
毎日欠かさず店の前の街を写真に撮ることを趣味にしていた。
その店の常連で作家のポール・ベンジャミンは、
数年前に妻を強盗の流れ弾で失って以来、仕事が手につかない。

ある日、ぼんやりとして車にはねられそうになったポールは、
ラシードと名乗る少年に助けられ、彼は感謝の印に家に泊めてやる。
少年は数日後に出ていくが、その数日後にその叔母が来た。
彼の本名はトーマスで、行方不明で心配しているという。
そのトーマスは子供の頃生き別れになった父・サイラスの
ガソリン・スタンドに行き、本名を隠して掃除のバイトをする。
ポールを再訪したトーマスは、実は強盗現場で落ちていた
六千ドルを拾ったのでギャングに追われていると明かす。
ポールはトーマスを家に置き、オーギーに頼んで店で使ってもらう。
トーマスはオーギー秘蔵の密輸キューバ葉巻を台無しにしてしまうが、
例の六千ドルで弁償するというのでオーギーも許す。
オーギーの所には昔の恋人・ルビーが来ていた。
実は2人には娘がいて、18歳で麻薬に溺れていた。
オーギーは娘を麻薬更生施設に入れる資金にしろと、
例の弁償の金をそっくりルビーに渡した。
ある晩、トーマスに盗んだ金を持ち逃げされたギャングがポールの家を襲う。
外から様子を察したトーマスは姿を消す。
負傷したポールとオーギーは息子同然のトーマスの安否を気づかうが、
彼は電話で無事を告げてきた。
2人はサイラスの所でバイト中のトーマスを訪問し、
彼に親子の名乗りをさせる。

晩秋、ポールにニューヨーク・タイムズ紙が
クリスマス向けの短編を依頼してきた。
ネタがないと困るポールに、
オーギーは自分の14年前のクリスマスの体験を語って聞かせる。
帰宅したポールは
『オーギー・レーンのクリスマス・ストーリー』の原稿に取りかかる。

http://blog.cnobi.jp/v1/blog/user/e5b21aa450b596bc2d2c1b78a13c4a4f/1280204223

ニューヨーク、ブルックリンでの物語です。
他人事に興味津々は日常茶飯事、
だけど関わりはなるべくしない都会に住む人の感覚。
そんな感情移入まではしない上でみつめた、
いろいろな人のプライベート小話。
強いテーマはないけど、
人との関わりって割といいなって思える箇所がいくつもあって、
人間関係に疲れた時とかに観ると、
冷静に上向き方向で考えることができる。
ああ、これは私が間違ってたからか。とか気づかせてくれる余裕を作ってくれる。
私にとってかなり貴重な「癒される」映画です。

http://blog.cnobi.jp/v1/blog/user/e5b21aa450b596bc2d2c1b78a13c4a4f/1280204291

特に自分の店の街角の写真を撮り続けるのと、
そして最後にオーギーがポールに話すクリスマスの話から
その写しているカメラの経緯エピソード。

煙草屋の店番中にオーギーは万引きして逃げたロジャーという少年を追いかけ、
掴まえ損ねたものの、少年が落とした財布をみつけます。
その中には彼の家族の写真が。

オーギーは届けに、彼の家を訪れます。
そこには高齢で盲目の老婆しかいません。
クリスマスの日に一人で過ごすのは寂しいために、
老婆はオーギーを自分の孫と勘違いしている「ふり」をして接し、
オーギーもその「暗黙のゲーム」に付き合います。
そして老婆が酔って寝ている間に、
オーギーはトイレに隠してあった盗品と思われる新品のカメラを盗んで帰宅、
後に毎日このカメラで写真をとっている、そんなお話。

このお話には嘘があります。
オーギーは老婆がドアを開ける時に、15個の鍵を開けたと言っていますが、
オーギーの話の白黒再現場面でも見られるように、鍵は3個しかありませんし、
実際、盲目の老婆が15個の鍵を開けることは無理でしょう。
この話を聞いていたポールはもちろん、この部分の嘘に気が付きます。
問題は何故このような判りやすい嘘を付いたかを、
オーギーに対してポールは
「君は嘘のつき方がうまい。
 勘どころを心得てて面白い話に仕立てる。すばらしい話だ」
と言ったのかです。

実はこのオーギーと老婆の「暗黙のゲーム」は、
そのままオーギーとポールの「暗黙のゲーム」につながっています。
この場面の前にポールはオーギーの店で煙草を買いますが、
いつも2缶買うのに、
その時は「自分の健康を心配してくれるひとがいるから」と言って
1缶しか買いませんでした。
しかしポールにそんな人はいないことは、
オーギーの部屋で亡き妻エレンの写真をみた時に
号泣していたことでオーギーは察していたわけです。
そしてオーギーは自分の話も(おそらく全てが)嘘であると
ポールに気付かせることで、話を一方通行的な「情報」にするのではなく、
心が通い合い共有できる「暗黙のゲーム」にしたのです。

「秘密を分かち合えない友達なんて、友達といえるか?」
「確かに。それが生きてることの価値だ」
最後の2人して美味そうに煙草を吸いながらの微笑み合うのが
とても印象的です。
そしてこのことはこの映画のメインテーマにもなっています。
とにかくハーヴェイ・カイテルとウィリアム・ハートの存在感が素晴らしい!

ただ、登場する女性たちの影が薄いというか、
みんな可哀相に感じてしまって、
誰かしら、幸せになるところを見届けれる場面があったらなと、同時に
ゲイとかそういうセクシャルな意味ではなくて、人間味という観点で
この監督はあまり「女性」に対して興味がないのかなと、
ちょっと残念に思えました。
でも冷ややかな目線なのに温かくもなせる、
なんだか村上春樹の小説みたいなギリギリラインの感覚、
やっぱり好きなんだよな〜

ちなみに、
この監督の次の作品「赤い部屋の恋人(The Center of the World 2001)」は
女性の影の薄さが、より浮き彫りにされている感じの内容で....
公開当日、ルンルン気分で観に行って撃沈した記憶が今、甦りました。



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