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ポテチの好きな映画についてと感想

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Doubt 2008



ジョン・パトリック・シャンリー監督作品
「ダウト 〜あるカトリック学校で」について

1964年、ニューヨーク・ブロンクスにある
カトリック学校セント・ニコラス・スクールにて。
厳格な校長シスター・アロイシスは、旧来の道徳観と篤い信仰心を持っている。
一方、司祭を務めるフリン神父は、
現代的な開かれた教会を目指すべきだという進歩的な持論を展開していた。
アロイシスは新人教師シスター・ジェイムズに、
物事は疑惑の目で見なければならないと指導する。

ある日、ジェイムズは、フリンが学校で唯一の黒人生徒ドナルド・ミラーに
特別な関心を寄せているとアロイシスに報告する。
礼拝の侍者役に選ばれ、司祭館に連れて行かれたドナルドが、
酒臭い息で戻ってきたのを目撃したのだ。
早速、アロイシスはフリンを校長室に呼び、真相を追求することに。
フリンは、祭壇用のワインを盗み飲んだ生徒を守っただけだと反論するも、
ジェイムズはフリンの言葉を信じるが、
僅かな証拠から性的関係の疑いが確信に変わるのを感じたアロイシスは
更なる疑惑を持ち続けることに。

それからアロイシスはドナルドの母親ミラー夫人を学校へ呼び、
事情を聞き出すことに。
その頃、フリンは大聖堂でこの件に関わる疑惑についてを問う説教を行う。
その説教の真意を尋ねるジェイムズにフリンは、
白人ばかりのこの学校にて独り黒人である
ドナルドを守ろうとしているのは自分だけだと主張し、
それを疑うとはどういうことかとアロイシスを批判したものであった。
さて、ミラー夫人は、黒人でゲイでもある息子を見守ってくれる
フリンへの感謝をアロイシスに語っていた。

彼女が帰ると、フリンが校長室へ入ってくる。
夫人を呼んだことに激昂し、自分への根拠のない反対運動はやめるよう、
アロイシスに強く迫る。
しかしアロイシスは動じず、
「神の意に沿う行為を為すためには、神より遠ざかる手段をとることも辞さない」
との信念を持つ彼女は、執拗にフリンの "罪' を追求し、
果てには司祭の職を辞すよう要求するのだった。



この物語は、
かなり深いテーマで観終わった後にいろいろと考えさせられました。
神父の疑いについての角度の違う異なる説教もとても面白い。
個人的には、他人の気持ちに立って、その空気を読み、感じ取った上で
いかに受け入れることができるかという ”寛容さ” の必要性を問うものだと思う。

はっきりいって、フリン神父と黒人の生徒は性的関係であると思います。
この神父はその寛容さでもってうまく隠してこれまできたのではないでしょうか。
その生徒も別に強制された風もなく、
むしろそうして欲しくて救われていた感じがしましたし、
まぁ、傍目から視たらとても悪なることでしょうけど。
それを完全に "悪" とみなしたシスター・アロイシス校長は、
神父の不適切な関係の疑いを信じてやまず、募れば募るほど
周りの状況を理解せずにその行為の "罪" だけを考え、
自分が1番正しい判断をしていると錯覚し、強行に実行してしまった。
結局、彼女の思惑通りになりましたが、
その後での後悔に満ちた告解を始めた姿はとても孤独。
神父が “疑い” における説教をした時の言葉、
「 “疑い” は、確信と同じくらい強力な絆になり得る。
道に迷った時、あなたは独りではない」
まさに言い当て妙で、まさにこの彼女そのもの。
泣き崩れたのはそれを理解したからなのでしょうね。
それにしても、この神父はかなりな人ですね。
神学校を追われたとはいえ、出世した上でですから。

そして、新人のシスター・ジェイムズ先生。
はじめは単なるどっち付かずの危うい感じに思えましたが、
心に汚れがない故の寛容さが溢れた存在だったのだと気づいた後で
この物語を再び観てみると、あら不思議。
はじめから神父と校長を見守るマリア様そのものではないですか。
道理で存在感があるわけです。



それにしても、シスター・アロイシス校長扮するメリル・ストリープと
フリン神父扮するフィリップ・シーモア・ホフマンの
曲者ならではの鬼気迫る演技でぶつかり合いが素晴らしいこと。
それを優しく見守るシスター・ジェイムズ先生扮する
エイミー・アダムスの演技も "寛容" をうまく体現していて
とても素晴らしいですが、
なんといっても、黒人生徒ドナルド君のお母さん扮する
ヴィオラ・デイヴィスの悲痛な訴えの演技には鳥肌が立ちました。
各賞を多く取った作品とのことですが、納得も納得、
見応えのある物語なわけです。


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The Tempest 2010

http://blog.cnobi.jp/v1/blog/user/e5b21aa450b596bc2d2c1b78a13c4a4f/1335713446

ジュリー・テイモア監督作品「テンペスト」について

ナポリ王・アロンゾー、ミラノ大公・アントーニオらを乗せた船が
大嵐に遭い難破。
一行は絶海の孤島に漂着する。
その島には12年前に弟・アントーニオによって、
大公の地位を追われ追放されたプロスペラーと
美しい娘・ミランダが魔法と学問を研究して暮らしていた。
船を襲った嵐は、12年前の復讐をするために、
プロスペラーが手下の妖精・アリエルに命じて用いた魔法の力によるものだった。

http://blog.cnobi.jp/v1/blog/user/e5b21aa450b596bc2d2c1b78a13c4a4f/1335713575
http://blog.cnobi.jp/v1/blog/user/e5b21aa450b596bc2d2c1b78a13c4a4f/1335713488

王の一行と離れ離れになったナポリ王子・ファーディナンドは、
プロスペラーの思惑どおりミランダに出会い、2人は一目で恋に落ちる。
プロスペラーに課された試練を勝ち抜いたファーディナンドは
ミランダとの結婚を許される。

一方、更なる出世を目論むアントーニオは王の弟を唆して王殺害を計り、
また、プロスペラーに奴隷として
こき使われてる悪魔と人間のハーフ・キャリバンは、
漂着した2人の王の家来を味方につけ、彼女を殺そうとする。
しかし、いずれの計画もアリエルの力によって未遂に終わる。

http://blog.cnobi.jp/v1/blog/user/e5b21aa450b596bc2d2c1b78a13c4a4f/1335713528
http://blog.cnobi.jp/v1/blog/user/e5b21aa450b596bc2d2c1b78a13c4a4f/1335713611

魔法によって錯乱状態となるアロンゾー一行。
しかし、プロスペラーは更なる復讐を思いとどまり、
過去の罪を悔い改めさせ、赦すことを決意することに。
和解する一同。
最後に魔法の力を捨て、アリエルを自由の身にしたプロスペラーは、
自分を殺そうとしたキャリバンにも哀れみを感じ、解き放すことに。


この映画はシェイクスピアの戯曲「テンペスト」を原作としていて、
国を追われた元ミラノ大公が男の魔法使いではなく、
女性となっている以外は忠実に描かれた作品です。
その "忠実さ" が、今の時代の感覚からしたら
ちょっと物足りない展開に感じてしまったのですが、
全体的な映像美、
特に妖精・アリエルの魔法の繰り出し方がとてもファンタジック、
そしてプロスペラー扮するヘレン・ミレンの
圧倒的な存在感がとても素晴らしい。
見せ場は冒頭の、
プロスペラーが嵐を起こして船を転覆させる場面でしょうか。
あと恋人同士になった2人にちょっとした演出を
魔法で夜空に繰り出す場面は、もう目から鱗状態で、
そこだけ何度もリピートしてしまう程でした。

http://blog.cnobi.jp/v1/blog/user/e5b21aa450b596bc2d2c1b78a13c4a4f/1335713641
http://blog.cnobi.jp/v1/blog/user/e5b21aa450b596bc2d2c1b78a13c4a4f/1335713676

何となくゲイチックな演出が垣間みれて、
例えば、ミラノ大公・アントーニオとナポリ王の弟・セバスチャンの関係とか、
妖精・アリエルの中性的な妖艶さとか、
キャリバンがマッチョな肉体をほぼ全裸で晒しているとか、
.....まぁ、私が勝手にそう感じただけかもしれませんが。
でも、ナポリ王子・ファーディナンドはあんなナヨナヨした優男でなく、
もっと凛々しい万人受けするイケメンであって欲しかったな〜と、
思った次第でございます。

そういえば、シェイクスピアの戯曲を映画化した
マイケル・ホフマン監督作品「真夏の夜の夢」も、
妖精の王・オベロンがイケメンマッチョでほぼ全裸で、
妖精・パックはやたら場末なゲイバーを切り盛りしている中年オネエな感じ、
そして妖精の女王・タイターニアに扮したミシェル・ファイファーが
ドラァグ・クィーンにしか見えないといった感じで
実にゲイっぽかったのを思い出しました。


Torch Song Trilogy 1988

http://blog.cnobi.jp/v1/blog/user/e5b21aa450b596bc2d2c1b78a13c4a4f/1279439065

ハーヴェイ・ファイアスタイン原作・主演による映画
「トーチソング・トリロジー」について

ニューヨークのゲイバーで働く女装芸人のアーノルド。
そんな彼の半生を、3つの物語に分けて描いている。

ショーの前に楽屋でメイクをするアーノルドの独白で第一話は幕を開ける。
若くない彼の女装した姿は、お世辞にも美しいとはいえない。
けれど、物語が進行するにしたがって、そんな彼がなぜか
とても愛おしく思えてくる。それはきっと、
周囲から受けるゲイに対しての無理解や偏見に傷つくことはあっても、
決して卑下することなく生きる彼の姿や、ゆきずりの関係の多いゲイの世界で、
いつも「心から相手を愛した」愛情深い彼がとても魅力的だからだと思う。

http://blog.cnobi.jp/v1/blog/user/e5b21aa450b596bc2d2c1b78a13c4a4f/1335058333
http://blog.cnobi.jp/v1/blog/user/e5b21aa450b596bc2d2c1b78a13c4a4f/1335058883

第一話は彼とバイセクシャルのエドとの交際が描かれる。
見た目はがっちり兄貴風で優しい気配りを見せるエド。
しかし、アーノルドとの関係を公表したがらないクローゼットなゲイだった。
更に女性の恋人と二股かけていた彼の態度に傷つき、
アーノルドは彼と別れることに。
その後、エドはその女性と結婚する。

http://blog.cnobi.jp/v1/blog/user/e5b21aa450b596bc2d2c1b78a13c4a4f/1335058373

第二話は、アーノルドと年下の恋人アランとの恋物語。
アランを演じたのは、爽やかな雰囲気のマシュー・プロデリック。
田舎から出てきた美青年風のアランがそれまでに付き合った相手たちとは違い、
アーノルドはアランをパートナーとして心から愛し、彼もまたその愛に応える。
しかし、2人が養子を貰ってささやかな家庭を築こうとしたその矢先。
買い物を頼んだは良いものの、なかなか帰ってこない、
なんだか嫌な予感がする。
外が騒がしいので出てみると、
血だらけで救急車に乗せられるアランの姿が。
アランはホモフォビアの暴徒たちに殴り殺されてしまっていたのだ。
深い哀しみに打ちのめされるアーノルド。
呆然と立ち尽くした彼の絶望的な表情といったら、
もう言葉にできないくらい。

http://blog.cnobi.jp/v1/blog/user/e5b21aa450b596bc2d2c1b78a13c4a4f/1335058705

第三話は、アランの死から7年後。
アーノルドはアランと育てるはずだった養子の高校生のデヴィッド、そして
結局、結婚生活が上手くいかないエドが転がり込んでのほぼ3人暮らし。
そこへ訪ねてくるアーノルドの母親。
ユダヤ人にとって、同性愛は特にご法度。
アーノルドの母親も、息子のセクシャリティーについては
昔から受け入れることができず,当惑や非難を隠すことができない。
愛し合う親子でありながらも、
この点に関しては越えられない溝がある2人の、
アランの死を巡る大喧嘩は、作品中もっとも心を打つ場面でしょう。

アランとの関係を祝福してくれない母に、
彼の死の顛末を話すことができず、
1人で哀しみに耐えてきたアーノルド。
一方、アーノルドがアランを、
父親の墓の傍らに葬ったことを冒涜だと怒る母。
2日間にわたる売り言葉に買い言葉の2人の口論は、激するあまり、
お互いに辛辣極まる言葉を発してしまう。
「お前なんか産むんじゃなかった」と言う母親。
「僕は愛と敬意以外は求めない。それを持たない人に用はないわ。
僕を見下げるなら出て行って。たとえ母親でも」と言うアーノルド。

http://blog.cnobi.jp/v1/blog/user/e5b21aa450b596bc2d2c1b78a13c4a4f/1279439011

ゲイであることを恥じずに懸命に胸を張って生きようとするアーノルドと、
そんな息子をありのまま受け入れることができない母親。
息子を愛しながらも、その点だけは目を逸らしたい母に対して、
アーノルドは「子供のすべてを知るのが母よ」と訴える。

結局のところ平行線のまま、
最後までアーノルドを完全には理解してくれなかった母親でしたが、
立ち去る前に、
「アランの死のことを話してくれれば,お前を慰めたのに」と言う母に、
初めてアーノルドは「ママ,彼が恋しいわ」と言う。
それを受けて母親が答えた台詞が忘れられない。

「時が癒してくれるわ。傷が消え去るわけではないのよ。
傷はやがて指輪のように身体の一部になる。
傷があることに慣れてしまう。
忘れるわけではないの....それでいいのよ」

時とともに浄化され、その人の一部となってゆく哀しみの記憶や思い出。
これは大きな哀しみを体験した人、
特に愛する人を亡くした体験をした人にとって、
なんという深い慰めを与える言葉だろう、と感じる。

最後の場面は、母親が去った部屋で、デヴィッドから贈られた曲を聴きながら、
アランの写真と、エドのメガネ、母親の土産のオレンジ、デヴィッドの野球帽を
そっと抱きしめるアーノルド。
それらを胸に抱いて幸せそうに微笑むアーノルドは、
彼ら全員を慈しむとともに、
自分のささやかな人生をも、心から慈しんでいるように思えて、
母との大喧嘩の場面とは違った涙が溢れ流れてくる。
たとえ哀しみや悲劇があったとしても、
たとえ周囲の理解が得られなくても、
真剣に愛し、生きた人の人生は美しく価値があるものだ。
そんなことを教えてもらえる、ほろ苦くあたたかい最高の物語だと思う。
そして何より、ゲイに拘らず、
「人生」の本質に迫る深い台詞の数々に感動する作品、
ため息ものである。


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