2010/07/19 Category : ラ行 The Rose 1979 ベット・ミドラー主演の映画「ローズ」について 反体制の波にゆれる1969年のアメリカ。 ベトナム戦争がもたらした若者たちの反撥は頂点に達し、 そんな空気の中で女性ロック・シンガーのローズが カリスマ的な支持を受けていた。 しかし、契約中の3年間の彼女のスケジュールはビッシリで、 専用機「ローズ号」で毎日旅する彼女の神経はすり減っていた。 故郷フロリダでの公演の後、1年の休みを欲しいというローズの願いも、 マネジャー・ラッジの厳しい言葉に消されていった。 ニューヨーク公演の後、ラッジと共に作曲家ビリー・レイを訪ね、 そこでビリーに冷たい言葉をつきつけられたローズは、 ビリーのもとをとび出し、 乗り込んだハイヤーの運転手・ダイアーと出会う。 途中、レストランに立ち寄った2人は、 そこでささいな喧嘩に巻き込まれるが、 その場のダイアーの男らしさにいつしか魅かれるローズ。 そのまま、彼とホテルで愛し合う。 翌朝、録音に5時間も遅れたローズはラッジと言い合うが、 仲裁に入ったダイアーにまで罵声を浴びせるローズだった。 その場を去るダイアーに、ローズは追いすがり、 自分の愛の深さを告白する。 そして実はダイアーは運転手ではなく、 軍隊を脱走している身であることを知る。 ローズの自由奔放な愛の生活は彼で落ち着くことなく、 かつてのレズビアンの愛人・セーラなどの愛も平気で受け入れる有様。 この場を目撃したダイアーは、さすがに冷めてローズのもとを去った。 いよいよ故郷のフロリダにやって来たローズは、再びラッジと 決定的な喧嘩をしてしまい、彼にクビを言い渡される。 不安のどん底につき落とされたローズは、 その場に戻ってきてくれたダイアーと車で町を走り回るが、 ある酒場で出会った昔の恋人が原因で、 今度こそ、決定的な別れをむかえてしまう。 一方、スタジアムでは、ローズを迎えようと、 1万人以上の観衆が待ちかまえており、 その熱狂の裏で、控え室のラッジらは頭をかかえていた。 口では強いことを言っても、ローズの行方をラッジは必死に追っていたのだ。 ローズがドラッグでふらつきながら、なつかしい母親に電話をしたことから、 交換手を通して彼女の居所をつかんだラッジはへリコプターを用意し、 花火の上がる大観衆のスタジアムに彼女を迎え入れることに成功。 割れるような観衆の拍手の中、足をふらつかせながらステージに立つローズ。 「私といて、私を置いていかないで」と訴えるように歌う 彼女に再び熱狂の拍手が起こった。 そして、続いて歌った歌詞が、つぶやきのようにささやかれると、 彼女はそのままばったり倒れた。 愛を求め、愛に生きた1人の激情のロック歌手のそれが最後だった。 彼女のやり過ぎ演技と女性ロック・シンガーという 極端な存在がうまくシンクロしたささやかな恋の物語。 核なる自分を、もの凄く分厚く派手な装飾した上でコーティング、 唯一の「歌」でもって完全武装.....のはずが、 時より素を出すたびにドラッグで誤摩化して 日々、名声と評価の荒波を突き進むローズ。 そんな彼女がふとした拍子に恋なんぞしてしまうものだから、 一気に核なる全てが露呈。 それを愛する人に受け入れられてしまうものだから、 喜び以上に戸惑いでいっぱい状態。 愛してるけど、不安過ぎ。 結局、素直になれずじまいで、せっかくの彼が去っていく。 その絶望感が、これまで蓄積して来た彼女の負が 一気に蝕むのを早まらせてしまって 最後のステージ。 彼女は死を自覚をしていたことは、最後の歌を聴いてわかる。 もっと素直であればこんな悲劇は生なかっただろうが、 そのおかげで素晴らしい才能が芽生え、こうして大きなステージで歌ってる。 ステージでローズが倒れた時、バック・ステージでマネージャーが、 呆然としながら静かに頭を抱えるシーン。 彼としては見守る者として、覚悟をしてたんだろうな。 そのままエンド・ロールで流れる名曲「The Rose」は、 ローズへの鎮魂歌なんでしょうね。 自業自得だけど、なんだか切ないんだよな〜 観た後は暫く引きずりますが、 なぜかマイナスな重みが感じられないのは、 きっと彼女の魅力の力なのでしょうね。 PR
2010/07/19 Category : ペドロ・アルモドバル Law Of Desire/La Ley Del Deseo 1987 ペドロ・アルモドバル監督作品「欲望の法則」について 新進気鋭の脚本家兼映画監督・パブロ。 彼にはティナという姉(実は兄)がいる。幼い頃2人の両親は離婚。 ティナは性転換して実父と愛人生活を送っていたが、 結局捨てられて以来、男嫌いで通る彼女は友人の娘・アダを実の子の様に 可愛がり連れ回るのを日課としている。 パブロには若くてハンサムな恋人・ファンがいるが、2人の仲は最近倦怠気味。 休暇で帰郷している彼からの他愛無い手紙もパブロにはイマイチ物足りない。 商売柄か勝手に熱烈な文面の手紙をでっち上げ、 わざわざファンに送り返させる事で気を紛らわすパブロ。 冷めかけた恋に情熱を呼び戻すのは、その道の熟練者と言えども、 容易な仕事ではないのだ。 空虚な彼の心の中へ、 突然、危険な香りを漂わせた青年・アントニオが飛び込んでくる。 ファンにはない強烈な個性と野性味にあてられ、 パブロは衝動的に彼と関係を持ってしまう。 パブロにとっては単なる出来心だったが、初めての男・パブロに対する アントニオの異常なまでの独占欲は、一方的にエスカレートしていく。 軽い悔悟の念を抱き始めたパブロ。 彼のつれない態度に苛立ちを感じるアントニオ。 パブロが書いたファンからの偽手紙が発火点となり、 激しい嫉妬の情に駆られたアントニオは、ファンの許へバイクを走らせる。 パブロはファンへの変らぬ愛にようやく気づき、駆けつけた時は既に遅く、 彼は変わり果てた姿となっていた。 警察は、ある手紙を手に入れ "ラウラ・P" という差出人をマークする。 だがそれは、 パブロがティナをモデルに書いている脚本から取った架空の名前で、 捜査は混乱するばかり。 しかも当のパブロは、ファンを失ったショックから、 帰り道交通事故を引き起こし、 頭を強く打ち、一時的に記憶を失ってしまう。 一方、恋に狂い暴走するアントニオの魔の手は、 彼に一目惚れしてしまったティナに向けられていく。 まさか彼が殺人犯とは知らないティナは、 今度こそ幸せをつかめると、有頂天。 記憶を取り戻したパブロはティナのアパートに立てこもる アントニオの許に赴く。 追い詰められたアントニオは、パブロと最後の愛を交わした後、 自らの命を絶つのであった。 暴走の果てに最期、 パブロとアントニオが抱き合った後に、パブロに毛布をかけて 「杖を取ってくるよ」といったアントニオ。 (実はその後自殺するのだけど) 青白いライトに照らされ、崩した黒い巻き髪、そして白いブリーフ。 それが彼を天使の様で「自らの愛のために命を絶つこと」を決意した アントニオの恐ろしいほどの神々しさはいったい何だろう。 嫉妬や殺人はキリスト教的には大罪になるはずだが、 そんな罪深き男がこんなにも美しく 神々しい天使の様な姿に見えてしまっていいのだろうか? この矛盾こそ、この監督が表現したかったことではないのだろうか。 アントニオが自殺した後、 彼はティナやアダが祈っていた祭壇の前で息絶える。 その身体をパブロは膝に乗せ、抱き寄せながら、 自ら招いたこの結果に悶絶する。 その姿がまたキリスト教の聖画のようで実に美しいから不思議な気分に。 官能的とか、同性愛とか、そんな枠組みは取っ払って、 純真にこれは愛の物語。 善くも悪くも、純度が高いとここまで美しく感じるものである、 ただしその2人にとっては....って感じですが。
2010/07/19 Category : ペドロ・アルモドバル All About My Mother/Todo sobre mi madre 1999 ペドロ・アルモドバル監督作品「オール・アバウト・マイ・マザー」について マヌエラは、女手ひとつで息子を育てた。 だがある日、大女優ウマ・ロッホにサインをもらおうと 道路に飛び出した息子が交通事故で死亡。 息子の死を別れた夫に知らせようと マドリードからバルセロナへ来たマヌエラは、 ふとしたことからウマの付き人になる。 同時に、妊娠したシスター・ロサと同居を始める。 ロサは実はマヌエラの元夫の子どもを妊娠していたのだ。 赤ん坊が生まれるが、エイズに感染していたロサはお亡くなりに。 葬式の席で、半分性転換した夫に再会し、息子のことを話すマヌエラ。 ロサの母親が赤ん坊がエイズ感染していることを恐れるので、 新しい息子を守るため彼女は再びマドリードに戻る。 数年後、エイズウイルスを克服した子どもを連れ、 またバルセロナへやってくるマヌエラ。 今度の旅は希望に満ちた旅だった。 名画「イブのすべて」と「欲望という名の電車」 女であることの悲しみを痛ましいほどに描いたこれら作品を、 物語の展開の中に見事に織り込みながら、 女であることの(そして母の)強さと慈しみを 思ってもみなかったような角度から描いた素晴らしい映画です。 この監督が他の作品も含めて、執拗に描き続けるのは、 薬物依存症患者や性倒錯者、不倫に走る者や宗教的異端の徒など、 社会の主流からはずれた人たちの物語。 社会の周縁部に息づくこうした少数派の人々は、それゆえに、 測り知れないほどの特異な孤独感を常に抱いています。 孤独を埋める手立てを強く求めるあまりか、 ノンケな人々には想像もつかない様な、 越えてはならない一線を越えてしまいます。 そんな一線を越える彼らの姿に言い知れぬ所行を ノンケな人たちにとっては「哀しみ」として観ている様ですが、 実際のところ、彼らにとっては自然なことで、 「だから何?」みたいな、それをプライドにしたりしています。 この映画が底なしの寂寥感を与えることに終始せず、 爽快感を与えてくれるのは、 そんな生命としての「強さ」が、 根底から生まれては溢れ出続けていることを 感じさせてくれるからだと思います。