2010/08/22 Category : クエンティン・タランティーノ Inglourious Basterds 2009 1941年、第二次世界大戦中のナチス・ドイツ占領下のフランス。 家族を虐殺されたユダヤ人の娘・ショシャナは、 「ユダヤ・ハンター」の異名をとるナチス親衛隊SSのランダ大佐の追跡を逃れる。 一方、「イングロリアス・バスターズ」と呼ばれる、レイン中尉率いる アメリカのユダヤ人秘密特殊部隊は、次々とナチス兵を血祭りにあげ、 レインの先祖のアパッチ族に倣って頭皮を剥いでいた。 1944年、映画館主となったショシャナは、パリでナチス首脳部の集まる ドイツ国策映画特集の企画を組み、その裏で復讐の牙を剥く。 そして、バスターズもまたその劇場でのテロ作戦を練る。 しかし、バスターズの作戦の情報を掴み、捕らえたランダは レインに密かにある取引を持ちかける。 公開当時、タランティーノ監督の戦争映画というだけでも ファンの私にとっては興奮したものです。 そして鑑賞後、作品の印象は 「アメリカ映画のよくありがちな戦争もの=アクション映画=アメリカ凄い!」 ではなく、素敵な意味で裏切られて、新たなタランティーノ監督の 一面を見せてもらい得したような幸せな気分に浸りまくりました。 5つの章で構成され、この監督らしく緊張感あふれる 各エピソードの積み重ねで成立しています。 第1章からして緊張感が頂点に達し、各章の展開が進むごとに 緊張感は沸点を越えていきます。 タランティーノ節ならではの独特の会話の妙から その緊張感に達していくのですが、 今回は言語による緊張感が特に素晴らしい。 英語・ドイツ語・フランス語・イタリア語が堪能な クリストフ・ヴァルツ扮するユダヤハンターが不気味でいい味を出していて、 全編にわたる緊張感は、 彼の発する台詞回しに寄るところが大きい感じがします。 またブラッド・ピット扮するナチスを倒す「バスターズ」の存在も不気味で、 彼らのエピソードと、ユダヤ人娘のメラニー・ロランの復讐のエピソードが クライマックスで結合する、そんな構成が本当に上手い! 『パルプ・フィクション』等初期の作品に見せた、 お馴染みの「映画ヲタク」を自称した独特の会話や 三つ巴のシーンも勿論満載ですが、 ただそれ以上に本作品で見せた復讐物語が、 全作品「キル・ビル」のように個人的な恨み晴らすだけのものでなく、 歴史の悪者に対し立ち向かうところが、 これまでとは違った大きな作風だなと感じました。 開幕、マカロニウェスタンの音楽を使用したり、 往年の名作映画「大脱走」の緊迫感を再現したりと映画偏愛はあちらこちらに 潜在していて、映画好きには本当にたまらない素晴らしい作品です。 ちなみに「イングロリアス・バスターズ」とは 「腐った奴ら」「恥ずべき奴ら」という意味です。 名誉など、何もない男たち。 この映画にはそんな奴らがたくさん登場しますが、 この中の一番はランダ大佐らSSのことではありません。 ランダの冷酷さをはるかにしのぐアルド・レイン中佐率いる者達のことです。 確かに、彼らが殺しまくっているのは、 悪名高き独裁者・ヒトラーの率いるナチス=ドイツの兵士やSSであり、 どれだけ残酷な方法で「ドイツ野郎」を殺していても、 それほど私たちの正義感は逆なでされないかもしれません。 しかし、ナチスだの、SSだのという属性を取り去れば、 彼らの行為は戦争中とはいえ、 どう見てもやり過ぎ、残虐極まりない殺人。 彼らが「ドイツ野郎」を殺しているのはそれが楽しいから、それだけ。 確かに戦争は人間の本性と、醜悪さを最大限に引き出す場です。 「イングロリアス・バスターズ」という名付けられる 名誉なき狂気に満ちた男の魅力は、 「戦争」という場においてのみ、輝くことができるのです。 結末、レイン中佐とランダ大佐の対決はレイン中佐が勝利。 しかも、家族を惨殺されたショシャナのテロ計画も成功し、 映画館は木端微塵に爆破されました。 普通はやった〜!となるのですが、爽快感は微塵も感じる余地はありません。 映画館を爆破する直前にスクリーンに大写しになる ショシャナの巨大な顔、そして高笑い。 まるで、悪魔に憑かれた女の狂気の高笑いのように響き渡ります。 本当に恐ろしい笑い声です。 迫害されたユダヤ人であり、家族を皆殺しにされ、 自身も命を落としたショシャナは同情されてしかるべき人物のはずです。 「鉤十字を刻むこと」や「ドイツ野郎」を殺すことに 異様な執念を見せるレイン中佐達と同様、 ショシャナもまた、「復讐」の執念に取りつかれた果てに ただの殺人者に成り下がったということでしょうか。 第2次世界大戦を背景にした物語において、 連合国軍、ナチス=ドイツ、ユダヤ人とくれば、 だいたい善悪の役割は決まってきます。 連合軍は「正義」で、ドイツは「悪」、 ユダヤ人は「純真無垢な被害者」で、 ドイツ人は「残酷な加害者」でという具合に。 これまでの映画の世界において、 この役割に互換性はないのが暗黙の了解でしたし、 ドイツが犯した戦争犯罪を考えると、あってはならないはずでした。 しかし、この映画は、連合軍の「殺人鬼集団」、 そして、復讐の「鬼」になったユダヤ人と、 従来、正義の側、被害者の側だった役割の人間に、「醜悪さ」という、 人間らしさを与えることにより、 同時にこのデリケートな問題に一石を投じました。 一見、従来からの役割分担は変わっていないようにみえるし、 変えていないように表面的に装ってはいます。 しかし、その内実は違うよ!ということが、 この映画を見ているうちに分かってきます。 「イングロリアス・バスターズ」には ゲッペルスの映画政策の説明というかたちを借りて、 映画製作の現状を批判する言辞が出てきます。 「ゲッペルスはユダヤ系映画会社を排斥した」 それは「ハリウッドの二の舞いを恐れた」からだというのです。 裏を返せば、 ハリウッド映画はユダヤ系に強く影響されているということになります。 だから、ユダヤ人はいつまでも「被害者」でなければならないし、 ドイツ人はいつでも「加害者」、そして連合軍は「正義」。 なるほど、と思うむきもあります。 しかし、これはユダヤ批判とみるべきではありません。 むしろ、その規定の範囲内でのみでしか性格づけをすることが許されない ハリウッドの固定観念的な映画製作を揶揄したものとみるべきでしょう。 人間の醜さというものは、 いずれの人間にも、存在しているものですが、 それは国や人種といったその人間の属性によって 濃淡がつけられるのではありません。 各人の生き方や人柄からそれは判断されるべきです。 ドイツ側だからといって無条件に醜悪な人間ではないし、 ユダヤ人だからといって誰もが天使のように純真無垢な人間でもありません。 それは迫害された経験をショシャナだって同様です。 この映画「イングロリアス・バスターズ」は第2次世界大戦下という、 登場人物の人間性が社会的な属性で判断されがちな時代をあえて選び、 固定観念に反する登場人物を随所に配置して、 私たちが想像するストーリー展開をあえて裏切って見せたのです。 この映画に出てくるイギリス人もアメリカ人もユダヤ人もドイツ人も、 いわゆる「正義」を体現する人物はいません。 一番ましなのは誰か、という比較はできるかもしれませんが、 それぞれに私たちの正義感を逆なでし、 残酷で、何か、人間として醜い部分を持っていて、 「この人が正しい」という人物は存在しません。 今まで多くの戦争映画には、共感すべき善人が必ず1人はいるものです。 その人に助けられて、映画の後味は良くなる。 ところが、その頼るべきヒーローが存在しないので、 すっきりしない気分が残る。 結末、「俺たちの最高傑作だぜ!」 と残酷に額に鉤十字を刻む得意げなレイン中佐。 本来、「戦争」という性質のモノには、 ハッピーエンドはあり得ないというのを十分に教えてくれるある意味、 麻痺した部分を戻してくれたこの作品、 さすが、タランティーノ監督! 実に素晴らしい映画です。 PR