2010/08/11 Category : ウォシャウスキー兄弟 V for Vendetta 2005 ウォシャウスキー兄弟監督作品「Vフォー・ヴェンデッタ」について 物語の舞台になっている近未来イギリスの状況描写が、 まるで悪い未来の日本の様。 サトラー議長が台頭してくる過程なんかは、 今の日本を見ているかの様でした。 議長のセリフやプロセロのトークだって、固有名詞入れ替えれば、 今の内からあちこちでリアルに聞けそうな気がします。 ゴードンの風刺ネタみたいなショーは、 今の日本でも政府の弾圧の前に自主規制と視聴者からの苦情で出来なさそうです。 「しかし、その(全体主義社会化の)真犯人を知りたければ、 鏡を見れば良いのです」 “V” の放送ジャックで語ったこのメッセージにも、重い響きが感じられます。 しかし、“V” は国民に向けて「蜂起せよ」とも「覚醒せよ」 とも言いません。 ただ「この日(11月5日)を思い出しましょう」とだけ言います。 私はこの映画を通して初めて知りましたが、11月5日は四百年前のイギリスで、 議会を爆破しようとしたガイ・フォークスという 革命家が起こした「火薬陰謀事件」に由来しているそうです。 本来の意味は「爆破計画の失敗を祝う」趣旨である様ですが、 一種の皮肉として “V” は「間違った体制に反抗する日」的な意味合いで訴えます。 この映画も、冒頭捕らえられ吊される ガイ・フォークスの場面から始まっています。 「1年後のこの日、議事堂前に集まってほしい」という “V” の呼び掛けにその日、議事堂前には多くのイギリス国民が現れます。 サトラーへの不満を叫ぶ事もなく、 ただ静かに、 “V” の仮面と扮装で何万人もの列を作って。 サトラーの指揮を失った事、目の前の仮面の列が「テロリスト」ではなく、 「市民」なのだと言う事を察した軍は、一斉に銃口を降ろし、 仮面の列は兵士達の間をすり抜けて議事堂の前へ進みます。 そして1年前のオールドベイリー裁判所爆破と同じ様に、 それ以上の規模で議事堂が吹き飛び、無数の花火が上がる時、 象徴的なチャイコフスキー「1812年」の楽曲に合わせて仮面の列は仮面を外し、 老若男女様々な顔の「人間」に戻って行きます。 終盤のこの場面は、地下での “V” の最期、 イヴィと警視・フィンチの場面と並行して、 個人的にかなり胸に来た感動の展開・情景でした。 その一方で、 “V” が「岩窟王」に対して言った様に 「映画なればこその結末」であった様にも感じられました。 イヴィの両親が国内に留まるか脱出するかを話し合った時について、 イヴィは醒めた視線でこう評します。 「 "今逃げたら政府に負けた事になる" と....まるで、ゲームのように」 これも、かなりぐっとくる場面です。 許せない事、批判したい事、食い止めたい事はあっても、 それはゲームじゃない。 彼らは自分の安全と、 自分の守りたい人の安全をまず優先するべきだったのかもしれない。 そんな側面が示唆されている様にも思えます。 “V” を通してイヴィは、戦う事を見出す訳ですが、 “V” 自身も彼女に出会って学んだ事があると告白します。 学んだ事については語られませんが、その結論として、 議事堂を爆破する権利を彼は彼女に譲ります。 彼の戦いは、厳密に「民主主義を取り戻すための」、 ましてや「圧政の時代を変える革命の」戦いとは言い難い部分があります。 一言で言うなら、 失うものが何もない人間の「奪い・破壊するだけの」復讐の戦い。 全てがゲームである要素が強いと、厳しい見方をするなら、 「革命」は後付の目的であったとすら言えるでしょう。 新しい時代を作り、 その中で生きていく人間として彼は自らを規定し得なかったのです。 目的のために手段を選ばない “V” の価値観を 「異常だ」と断言できるイヴィこそ、理念ではなく「人」を見れる。 そして彼女こそが、新しい時代を作る資格がある、 そう、彼は学んだのではと思われました。 テロを自作自演した管理社会を壊すには本当のテロしかないというのが皮肉。 今のアメリカに警鐘を鳴らす映画がやっと出てきたという感じにも思われます。 (911はアメリカ政府の自作自演説がかなりある) イヴィが閉じ込められた理由は、 彼女が “V” が計画するテロに反対して出て行ったからです。 テレビ局襲撃以降、彼は彼女に対して、 自分と同じ意思(テロリズム)を感じていて、 同志・仲間という感情にを抱いています。 もしかして彼女ならば、 自分の強い意思(テロリズム)を理解してもらえるんじゃないかと。 ところが、テレビ番組の右翼系司会者を殺した後、同意を得られるはずが、 逆に彼は彼女に非難されてしまいます。 そこで “V” は考え、 彼女に自分の行動を心の底から理解してもらうにはどうすれば良いか? そこで、自分の今までの壮絶な経験と同等の経験を彼女が味わえば、 自分の気持ち、すなわちテロリズムは きっと彼女に理解してもらえるはずだと。 かなり強引なやり方をする “V” に対してはじめはかなり憤慨していましたが、 最終的にイヴィは “V” を理解することへとなるのですが、 それは彼女だからこそであり、2人は「運命の同志」なのだなと。 “V” が人に見せられないほど全身が醜くなった容姿に対して、 女性にとって美の象徴である髪を刈られたスキンヘッドのイヴィ。 “V” の並外れた腕力は、ラストで電車を進める強靭な意志へ、 さらに、怒りがこみ上げて雄叫びをあげる瞬間の炎の中の “V” に対して、 雨が降る中で雄叫びをあげる彼女へと、 それぞれが対称的に置き換えられていることによって、 その関係が際立っているのが分かります。 なんだかそういった2人の強い関係が羨ましく思います。 イヴィに扮したナタリー・ポートマンの存在感はとても素晴らしいです。 スキンヘッドでもこんなに華のある女優さんは他にいないと思います。 そしてやはり “V” を扮したヒューゴ・ウィーヴィングのずば抜けた演技力、 そしてウォシャウスキー兄弟の演出力の凄さも素晴らしいです。 仮面に表情をみせれるなんて本当に凄い! おどけている時は本当におどけて笑っているように見えるし、 優しく微笑んでいる時は本当に微笑んでいる。 残忍さや冷酷さを感じさせる嘲笑、歪んで狂った情熱の笑顔、 それらが同じ仮面からしっかり浮かんでみえてきます。 仮面劇、日本でも能楽とかそういう演出が必須でしょうけど、 映画でそれが出来るというのは芸達者を超えた、 正に稀有なんだろうなと思いました。 PR
2010/07/22 Category : ウォシャウスキー兄弟 Bound 1996 ウォシャウスキー兄弟による監督作品「バウンド」について レズビアン絡みのシーンがある映画はこれまであったとしても、 男の欲情をかき立てるのを貢献するようなものだけで、 結局、男の世界の中での「それ」だけであった。 この映画の2人のヒロインが交わす愛の駆け引きは、もの凄く生々しく、 そして、美しい。 腕のいい盗みの元プロ・コーキーはアパートの内装と配管工事を任されてた。 隣の部屋には、ある筋のマネーロンダリング担当の男の情婦 ヴァイオレットが住んでいた。 ある日、妖艶なヴァイオレットは 中性的なコーキーにひと目惚れして誘いをかけ、 2人はその夜、激しく求め、愛し合う。 それからいろいろあって、マフィアの裏金を奪う計画に発展するわけですが、 目が話せない展開とついて廻る格好好さっていったら、もう素敵過ぎです。 台詞の言い回しとか、仕草とか、着こなしとか、 やっぱりギャングものはこうでなきゃ! スタイリッシュで、品ある人間臭さを持ち合わし、そして極悪。 ずっとドス黒の闇の中なのに、時折みせる霧がかった煌めきみたいなもの。 世間の「ちょい悪」なんて俗語は最悪。その内に廃れそうですが、 今だ何がいいんだか、もうさっぱり。 やはり極悪でしょう。 犯罪はともかく、 あくまで、この映画の雰囲気からしてですが、好きなんです。
2010/07/28 Category : ウォシャウスキー兄弟 The Matrix 三部作 1999-2003 ウォシャウスキー兄弟による映画「マトリックス 3部作」シリーズについて 改めて何度か見返して意味深で謎であったところが解るにつれて、 特にマシン世界側の住人の存在について、 私的には非常に良く出来てるな〜と感心します。 ここからはネタバレだし、かなりマニアックな話になりますが、 デウス・エクス・マキナ(ラストのベビーフェイスな機械のドン)が 牛耳る現実世界。 その機械たちの電池として生かされている人たちがマトリックスの住人で、 アーキテクト(紳士の老人)により、設計から製造、そして制御などを、 純粋な論理に基づき管理している。 それに対してオラクル(予言者でクッキーを焼くおばさん)が、 論理では割り切れない人間(精神)を維持するために、 「偶然(チャンス=不確定性)の結果」に基づき管理。 今回のネオ覚醒により、世界全てが崩壊するのを予見、 でも自分ではどうすることも出来ないので、自由意志を持つ人間に託し、 崩壊を避けて機械と人間の共存する方向で人間に協力する。 サティー(インド人の少女)はプログラム同士が愛し合って生まれた 愛のプログラム。 メロビンジアン(フランス気触れの金持ち男)は、元オラクル。 予見できる今のバージョンアップしたオラクルが存在してから、 上書きされて削除されるのを恐れマトリックスに逃亡、 今はエグザイルのドンに。 セラフ(カンフーの達人でネオよりカッコいい)は 現オラクルの防御システムですが、 メロビンジアンに「放蕩息子」と呼ばれるところから、 元々は彼の身内であり、 もっと遡ると、初めてネオを出会う場面の彼の行いからして、 何代目か前のネオ(救世主)だったと思われ、最後の場面で納得。 さてその最後の場面、 マトリックスにてアーキテクトとオラクルとサティー、 そしてセラフの4人が集まって、 とても人間的に偏って不安定だったこの世界を 今回のネオの奇跡(ウイルス暴走阻止と完全破壊)によって、 とても安定した平和で愛ある世界に作り変えれたことを 喜んで終わるのですが..... 死をもって己の正義を貫く、とても素晴らしいことだと思います。 そして各人が運命づけられて、 それ以上の働きしてサポートをする人たちも素晴らしい。 でも結局のところ、 その世界にとって私たちはわがままこの上なく邪魔な存在。 死をもって機械との交渉を成功させ、 攻撃を止めさせたせっかくのネオの働きも またいずれ、振り出しに戻って次こそは、きっと滅ぶのだろう。 良心と欲深などの汚れを兼ねそろえた人間だもの。 希望を胸に、時に反乱を起こしつつ、 必死にしがみついて足掻いて頑張って生きていく。 そんなものに永遠なんて無い、だからこそ、輝いている。 この物語の人たちはすごく。 現実での風潮として、やたら「エコ」がどうの、 地球温暖化を防ごうだの、 希望を持つ以上に、なんだかキレイごとで済まそうとして、 結局、無関心にさせている。 どうしてその過ちを私達がしてしまったのか、 真っ向から挑まないのだろう? さあ、この危機感を真摯に受け止めてキレイごと一切無し、 この際人間第一で、 私達のための地球を、私達人類を 生きながらえさせていく方法や活動をしようではないかっ! そんな熱く偽善を語ろうものなら、誰からか口を塞がれる。 キレイに生きる。それがモットー。 そう、手を汚してまでやりたくない、面倒臭い、でも未来大丈夫かな。 そうだ、聞かなかったことにしよう。 結局、この何でも出来ちゃうマトリックスの空間なんて出来た日には、 極論、新しいゲームを買うために徹夜で行列してまでみたいな、 殺到、自ら進んでと「地球」なんか放っといて住み始めるんだろうな〜 それにしてもちょっと思ってしまったのですが、 人間側にしたらネオの行いは直接見て理解している人はいないわけで、 利用されて元に戻っただけじゃんって、 私ならザイオンの街を再建しながら愚痴ると思うのですが、 どうなのでしょうか?