2010/08/02 Category : サ行 Priest 1994 アントニア・バード監督作品「司祭」について 英国リヴァプールの教区に勤める新米神父グレッグさん、実はゲイ。 そんな彼がジューリーという少女から 父親に性的虐待をされていることを告白される。 グレッグは、教会のルールに従い、母親に事実を伝えるために ジューリーの許可を得ようとするが、得ることは出来なかった。 自分の無力さに苛立っているグレッグは、 発展場で出会ったグラハムという男性との関係と 神への忠誠の間でも心が揺らいでいた。 グラハムに徐々に心を許し始めた矢先、 2人が車の中でキスをしているところを警察に見つかり、 グレッグがゲイであることが公になってしまう。 その結果、田舎の厳しい教区に左遷。 一方、ジューリーの母親に、父親が娘をレイプする現場を目撃してしまって、 「守秘義務」を守ったグレッグを侮蔑する事になり、 二重の非難を浴びることに。 それでも勇気を出して、主任司祭(リベラル派)マシューの説得により、 リヴァプールに戻る。 聖体拝領のミサで彼は女子高生に「許してくれ」と詫び、 女子高生はそっと、彼を抱きしめる。 「保守的なカトリックの神父として生きるということはどういうことなのか」 信仰とは何か?と、いうものをひしひしと伝える物語です。 虐待の事実を知りながらも、何も出来ない無力感を神に訴えたり、 グラハムを愛しているのに、 この職を辞めてまで彼と一緒になることを選ぶことはないグレッグ。 神父として生きていくには、多くの困難があり、 それらに対して明確な答えを見出すことが出来るわけではない。 それでも、そう生きたいグレッグは、 それだけ神への忠誠を誓っているのでしょう。 私はあまり信仰に関してはほど遠いところに居るので、 把握がいまいちなところはあります。 でもこれって、時々、迷ったりした時に手出してくれるとか、 人とコミュニケーションするための場を提供してくれるとか 対象となるそれぞれの神の教えはあるものの、強制はなく、 人のより良く生きて行くことへのサポートみたいな役割なのではと思うのですが、 それらはあくまで、二の次ということでしょうか? それにしても彼の「司祭として」と「人間として」とのジレンマ。 苦しい現実だな〜 PR Comment0 Comment Comment Form お名前name タイトルtitle メールアドレスmail address URLurl コメントcomment パスワードpassword